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長崎への原子爆弾投下時に、アルコールを飲んで助かったという話があります。
その中で、長崎医大病院で被爆した調来助教授の書籍を確認できました。
有用と思われる部分について、引用します。
なおアルコールを飲んだ部分は、記載が2か所あります。
筆者の意見などは、1番目のコンテンツ(アルコール(長崎被爆者 調来助氏の生存1))をご覧ください。

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以下、「医師の証言 長崎原爆体験 調来助、吉澤康雄 著 東京大学出版会」の「長崎原爆被災―医師の日誌 調来助」より引用します。

こちらの手記では、アルコールを飲む前に、助かるかもしれないと考えだしたと書かれています。
また、牛骨のスープを飲んだことや、ビタミンC、カルシウムの注射をしたとも書かれています。

八 急性原爆症で臥床

弘治の死が確認された後は、力もつき果て、何をする元気もなく、母や純子、娘達と互に慰め、励ましながら、乞われたら被爆者を往診してやる数日間が続いた。それものろのろと、まるで夢遊病者のようによろめき歩きながら――。
九月二日に、約二キロ離れた横道から往診を頼まれた。全身倦怠がひどく、歩くことさえまともには出来ない状態だったので、断ろうかと思ったが、被爆者が可哀そうなので行ってやることにした。しかしのろのろ歩きなので、行き着くのに一時間余りかかったようだ。患者は瀕死の状態で、一応注射はしてやったが、私が帰って間もなく死亡したとの報告を聞いた。

九月三日(原爆病で就床の日)
この日に大学本部から連絡があって、緊急会議の召集を受けた。大学再建に関する重要な会議とのことで、是非行かなければと思ったが、一人で行くのは不安だったので、高女二年生の朝子を伴につれて家を出た。道尾駅まで二キロ余りをそろそろ歩き、長崎駅で汽車を降りると又一キロの道を、本部のある商工会議所(桜町)まで歩いたが、その時小川町あたりで、一〇メートル程先に筬島助教授の行くのが見えた。多分会議に行くのだろうと思い、追いつこうとしたがどうしても追いつけず、声をかけようとしても大きな声が出ない。とうとう同じ間隔を保ちながら、やっとの思いで会議所に辿りついた。筬島君も私と同じように弱っているんだなと思った。

会議は二時間余りですみ、又朝子に付添われて帰ったが、家につくと起きていることさえつらくなったので、すぐに床をとって横になった。

翌朝私は床の中で、上腕と大腿に無数の小さな溢血斑を発見した。これまで多数の患者に見たのと同じ色である。そんな人は皆死んでしまったので、今度は自分が死ぬ番ではないかと不安になった。

その頃、北村教授が何かの用で縁先まで来たので、起きて行って斑点を見せたが、教授は「私にもあるよ」と云って、腕をまくって見せた。私のよりも少し色が濃いが、私と違って至極元気である。そこへ純子もやって来て、「それは蚤の食った跡でしょう。私にもありますよ」と云って、慰め顔に自分の斑点を示した。しかしそれとは少し違うので、念のために十四歳になったばかりの朝子に、注射の方法を教えながら、ビタミンCの静脈注射をやって貰った。また咽喉が痛むのでカルシウム二〇ccの静注もやって貰った。注射は上手に出来たが、針のあとが斑点になってなかなか消えない。これも亦心配の種となった。

それから一週間ぐらいは、腕や股の斑点を見つめながら、「私が死んだら後はどうなるだろうか。遺言でも書いておこうか」など考えて、とても辛い思いをした。食欲もなく、全身がだるくて、寝返りも思うようには出来ない。物を云う時も大きな声が出ないので、黙り勝ちになった。

ところが一週間程たつと、注射の針跡の斑点は色が変って、紫色から青色、黄色になって行くことが確かめられた。「ひょっとすると助かるかも知れない」と考え出したのは、九月十二、十三日頃だったろう。何となく嬉しい気がした。

九月十六日だったと思うが、教室の藤井君が見舞に来て、血球計算をやってくれた。赤血球数三百五十万、白血球数二、四〇〇だったが、溢血斑の最盛期には、恐らくもっとずっと少なかったに違いない。後に白血球数一、〇〇〇以下の人は殆ど皆死んだと聞いて、思わず慄然とした。藤井君はその時、牛骨のスープをビール瓶につめて持って来てくれたが、とても美味しかった。

二十日頃だったか、医専三年の香田君が来て、一晩泊めてくれという。息子達が死んで淋しい時だったので、快く承諾したが、色々とうるさく話しかけて来るのには弱った。衰弱している私は返事をするのさえ物憂く、早く寝てくれたらと思っていると、香田君は土間に置いてあるアルコール瓶を見つけ出し、これを飲んでもいいかと云う。死んでも知らないよと返事したが、彼は「これはメチルでなくてエチルだから大丈夫です」と云いながら、小さなブドウ酒のコップに半分程入れ、それを糖液で薄めて、「先生も一杯如何です」と私に勧めた。私は肝臓をやられているので毒だろうと、初めは躊躇したが、余り執拗に勧めるので、少しずつ嘗めるように飲んでみたが、とても舌触りがよく、とうとう皆飲んでしまった。すると不思議なことに、何となく体が温まり、いくら喋っても疲れないようになった。その後は、彼が帰った後も薬と思って朝夕続けて飲んだが、そのせいか急に元気が出たようだ。純子も「大変顔色がよくなった」という。平素嫌いでもない酒で病気が治るのだったら、こんな嬉しいことはない。土間に放置していたアルコールが、急に大切な品物に見えだした。全く私にとっては救いの神様みたいで、本当に生気をとり戻し、これなら大丈夫だと思ったのも、これをやり出してからであった。

以下略

長崎の写真2


*医師の証言 長崎原爆体験 調来助、吉澤康雄 著 東京大学出版会

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